人、街、酒

第3回

フォークデュオとして息の長い活動を続ける「紙ふうせん」のお二人。大学の進路は別々でも、音楽が二人を離しません。

それぞれの道を

悦治郎 県立尼崎北高校を卒業後、京都外国語大学へ進みました。でも、第一志望の大学ではなかったし、これと言った目標はなかったんです。
 僕は、目の前にあること、その瞬間瞬間には一生懸命やるけれど、そこから先にどうするかを考えることは、ありませんでした。その頃も力を入れたのは、やはり音楽。大学1年生の秋に「アメリカ民謡研究会」というクラブを学内に作り、「フーツ・エミール」という名のフォークバンドを結成しました。ピーター・ポール&マリー(PP&M)のコピーバンドです。アマチュアコンサートが盛んな頃で、京都市内はもちろん、いろんな所でコンサートを開いていました。
 大阪のフェスティバルホールでアマチュアコンサートを開いたのは、大学2年生の時。2,700席を満席にしたんですよ。大したもんでしょ?(笑)やる時はとことんやってしまうんです。

泰代 私は、武庫川女子大音楽学部声楽学科に進みました。将来、音楽の仕事に就くために歌の勉強をしたかったんですが、クラシックを学ぶ学部しかなかったんです。
 そんな音楽環境にいましたから、悦治郎さんから招待状をもらってコンサートを聴きに行った時は、カルチャーショックを受けました。PP&Mそのものではなく、PP&Mのコピーバンドなのに、感動したんですよ(笑)
 ハーモニーも歌の内容も素晴らしい。私も歌いたい! と思いました。もっとも、歌曲のためのイタリア語、ドイツ語の勉強ばかりしていて、英語は苦手だったんですけれどね。

デュオのスタート

悦治郎 大学3年の時に、「一緒に歌おう」と声をかけて、2人で歌い始めました。
 PP&Mをコピーしているのは楽しいけれど、日本には日本のフォークソングがあると思うようになり、「竹田の子守唄」、「こきりこの唄」などを歌っていました。
 月1回の「赤い屋根の家コンサート」を始めたのはその頃です。会場にしていた尼崎市武庫之荘の文化会館の屋根瓦が赤かったので、そのままコンサート名になりました。
 色々なバンドに声をかけて演奏をしてもらい、67年7月〜69年まで2年間続きました。

 音楽が結ぶ周囲との繋がりの中から、次へのステップが始まってゆきます。

つづく


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