人、街、酒

第6回

フォークデュオとして息の長い活動を続ける「紙ふうせん」のお二人。「赤い鳥」から「紙ふうせん」へ、新たなスタートです。

グループ名の由来

 74年8月に「赤い鳥」を解散した翌月、日比谷公会堂で行った「紙ふうせん旅立ちコンサート」から、デュオの活動が始まりました。「紙ふうせん」の名前は、悦治郎さんの命名ですが、「赤い鳥」時代に「紙風船」という曲があったことを記憶している人も多いのでは?
― 落ちてきたら
  今度はもっと
  高く高く
  打ち上げようよ ―
 詩人・黒田三郎の詩に悦治郎さんが作曲した歌です。
悦治郎 時代は、「日本列島改造論」が席捲し、高度成長真っ只中でした。「すぐに踏み潰されそうなもの、弱き者、聞こえてこない声に耳を傾け、大切にしたい」という思いをこめました。そして「あなたの温かい息を吹き込んでください。そうすれば、あなたの街まで飛んでいきますよ」のメッセージを含めています。「赤い鳥」時代の後半は、メンバーのオリジナリティを出した曲作りもしましたが、そのなかから、僕たち二人は、「日本の伝承歌を歌う」路線がはっきりしていました。

またふたりになったね

 74年5月に結婚し、「紙ふうせん」結成を経て、東京を拠点に活動していました。その年に発表したファーストアルバムのタイトルは、当時のお二人の状態そのものの、「またふたりになったね」。湘南地方の伝承歌「いかつり唄」や、翌年にシングルカットされた「ささぶね」などが収められ、「昭和の名盤」と語り継がれています。
 76年7月の出産を前に関西に移転し、以降、関西が活動の中心になりました。
悦治郎 子どもが生まれてからの泰代さんは、よく頑張りはりました。
泰代 ツアーに出ると5日は家に帰れないので、実家の親が子どもを預かってくれていました。コンサート終了後、悦治郎さんやツアースタッフは、現地泊。私は金沢や福井あたりの距離なら、夜行列車でも飛行機でも、便さえあれば家に帰っていました。朝の時間を一緒に過ごし、母から留守中の様子を聞いて対応を相談してから再びコンサート会場へ戻る毎日でした。子どもって、不思議なくらい土日でお医者さんがお休みの時に限って熱を出すもので。
 コンサートツアーを繰り返し、新しい曲を出すうちに、77年に大ヒット曲が生まれます。

つづく


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