歌でつなぐ

第2回

歌への扉

高校時代、クラス対抗の合唱コンクールがあったのですが、僕のクラスは3年間連続で優勝しました。毎年クラス替えがある中、3年連続というのはすごいでしょう。実は、僕が指揮をしたのですが、吹奏楽部では、クラリネットと指揮の両方をやっていたので、その成果だと思います。

それまでクラリネット少年だった僕が、ちょっとしたことがきっかけで、歌への扉を叩いたのは、ちょうどその頃でした。音楽の先生から頼まれて、コーラス部へ助っ人をしたのです。NHKの合唱コンクールへも出場しましたよ。そうこうするうちに「声楽をやってみない?」と勧められ、国鉄・篠山口から阪神・魚崎まで、レッスンへ通うことになったのです。初めてのレッスンは、華やかな女性陣に囲まれて、とても照れくさかったのを覚えています。

恩師との出会い

魚崎のレッスンは、年配女性の先生だったのですが「畑君は男の子だから、男の先生の方がいいわねぇ」と、紹介されたのが、僕の声楽人生のキーパーソンとなる田原祥一郎先生でした。当時、オペラの本場イタリアから帰国したばかりの田原氏は、同じ敷地内に住居を構えていらっしゃいました。何の予備知識も無くお会いしたのですが、世界で活躍するオペラ歌手で音大教授という、すごい方だったのです。篠山の少年が声楽を習い始めて、まだ数ヶ月しか経っていないのに、こんなラッキーなことがあるのでしょうか。

声楽への道

良き師に恵まれたことで、今までのクラリネット生活から、歌の世界へと一変しました。自宅で練習していると、近所のおばさんが田んぼのあぜ道に座って、僕の歌を聴いていたということもありました。

当時、母が入院していたこともあり、何となく心の空洞を感じていたのかもしれません。寂しさを埋めるように、歌に没頭していきました。

中学時代から「音大へ入りたい」と思っていましたが、クラリネットで受験するつもりでいました。でも、高校2年の終わり頃から始めた声楽に傾倒し、大学受験は歌で勝負することになりました。

最高峰の東京芸術大学を目指しましたが、2次試験まで進んだものの敗退。

田原先生へ報告した時に「畑君、僕と一緒に大阪音大で勉強しよう」と、励まして下さった言葉に感激しました。尊敬する田原先生が「僕と一緒に・・・」とおっしゃったことに、胸を打たれたのです。
田原先生との出会いがなければ「今の僕は無い」と言えるほど、不思議な運命を感じずにはいられません。

次回に続く