歌でつなぐ

第8回

生活が安定し長女も生まれ、大きなリサイタルを次々とこなし、素晴らしい賞もたくさん頂き、充実した毎日を過ごしていた30代。

しかし、僕の心の中では、他人の評価を気にしている自分がいました。そんな自分自身に、違和感を抱いていた時、勤め先の大学で、在外研修の募集があり、早速応募したのです。

留学したい!!

無事に選考され、「音楽の父」とも言われるバッハの生まれ故郷ライプツィヒ(旧・東ドイツ)への留学を希望しました。ちょうどその頃、バッハもカントール(音楽監督)を務めた、聖トーマス教会合唱団が大阪のシンフォニーホールで演奏するという噂を聞きつけました。

なんとか手を尽くして、その由緒ある聖トーマス教会のカントールであり、ライプツィヒ・バッハゾリステンのメンバーであったハンス・ヨワヒム・ロッチュ氏に直接お会いできる機会を得て、「留学したいので、ぜひ指導して欲しい」と頼み込み、その場でOKをもらったのです。

ところがその後、アドレス交換までしたロッチュ氏と全く連絡が取れなくなってしまいました。

一九九一年当時、東ドイツはベルリンの壁崩壊直後。東西統一の急激な変革の中で、経済的にも混乱の中にあったのです。

結局、当初の希望だったライプツィヒでの研修はあきらめなければならなかったのですが、この時、ピンと閃いたのがオランダでした。

オランダへ留学

オランダには、僕の大好きなバリトン歌手、マックス・ファン・エグモント氏が住んでいました。バロック音楽一筋になり、ファンになった歌手の一人で、ぜひ彼の指導を受けたいと、急遽、渡航先をオランダへ変更しました。

当時、イギリスやオランダでは、「古楽器(こがっき)」(または、ピリオド楽器)でバロック音楽を演奏することがブームとなっており、古くて新しいバロックの流れが生まれつつありました。

日本を出国する前に、僕のCDをマックス・ファン・エグモント氏宛に送付していたのですが、レッスンの時にお会いすると、そのCDに付箋がベタベタと貼り付けてありました。そこには、几帳面な細かい文字でビッシリと、僕へのアドバイスが書き込まれていたのです。

36歳になるまで自分でも気付かなかった癖や、誰も教えてくれなかった歌い方への新しいヒントなど、ものすごく勉強になったレッスンでした。

次回に続く