人、街、酒

第4回

フォークデュオとして息の長い活動を続ける「紙ふうせん」のお二人。大学時代の活動が、人気グループ「赤い鳥」を生みます。

赤い屋根の家から

悦治郎 「赤い屋根の家コンサート」では、泰代さんとのバンドとは別に、武庫之荘の住民で作った「タウン・シンガーズ」というバンドで、ピーター・ポール&マリー(PP&M)のコピーを歌っていました。
 毎月やっているといろんなバンドが入ってきて「一緒にやらないか?」という声もあがるようになりました。後に「赤い鳥」が誕生するきっかけになりましたが、毎月の企画を考え、プロデュースすることから、出演者の食事の買い出しまで、することが多くて忙しくて、将来のことなんか考えていられなかったですね。

泰代 大学卒業が1年後に迫ってきて、みんな卒業後どうするか? を考え始めていましたが、私は、中学・高校の音楽教諭免許を取っておいたらいいわと思っていた程度でした。
 ミュージック・コンテストへエントリーしたのは、プロを目指していたのではなく、「記念に出てみようか?」という気持ちからです。全国大会までいけたら、どんなレベルのところで音楽やってたのかわかるだろうなと。
 第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(1969年)に「赤い鳥」として出場しました。
 歌ったのは、「竹田の子守唄」と「COME AND GO WITH ME(アメリカのフォークソング)」。全国大会でグランプリを獲得してしまいました。

悦治郎 いろいろなところから、プロへのお誘いがありましたが、お断りしていました。僕は、舞台を創るのが好きだったので、演出を志してみようかと思ったり。
 プロになる決心をさせてくれたのは、作曲家の村井邦彦さんです。でも、すぐさま契約というわけではなかったんですよ。まず、尼崎の家まで東京からポルシェを飛ばして来てくれたんですが、難しいことは解らないので父に相談すると、契約書を読んだ父が、「これは労働契約書ではありません。終身雇用になっています」と指摘し、一度目はお断りしました。
 1970年4月にグランプリのご褒美旅行としヨーロッパに行き、ロンドンでレコーディングしたんですが、その時に、村井さんは契約書を作り直して、ヨーロッパまで追いかけてきたんです。村井さんは、僕たちと2歳ほどしか違わないのに、すごいパワーのある人でした。

 プロへの道を進みだしたお二人。「赤い鳥」として羽ばたきます。

つづく


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