歌でつなぐ

畑 儀文さんはシューベルトの歌では第一人者と言われ、世界的にも活躍する一方、音楽を通じてまちおこしをしている行動派の現役テノール歌手です。

第1回


丹波篠山の少年

生まれも育ちも篠山で、山・川・畑しかない田舎で高校時代まで過ごしました。音楽に関係の無い、普通の家庭で、母は詩吟、祖母は趣味で御詠歌をやっていたぐらいです。

小学校の教師だった父が、学校でオルガンを弾いている姿を初めて見た時は、驚きと同時に感動しました。自宅にある楽器やレコードは、年の離れた姉兄のために、両親が購入した物ばかりでした。楽器は、ヤマハのシンプルな足踏オルガンとお琴があるていどで。子供の頃によく聞いたのは、唱歌のソノシートですね。それも、姉のお下がり。

歌に目覚める

当時、通っていた小学校は1学年30名ぐらい。今では、生徒数が更に減少し、過疎の小学校になっているようですが。

生徒数が少ないため、郡内の小学校が集まって「連合音楽会」が開催されるのですが、小学4年生の時に、初めて独唱を経験しました。曲目は「里の秋」。その時、気持ち良く熱唱できたのが、人前で歌う原点になっているのかもしれません。

その後、小学6年生の時に、大村崑さんが司会していた「ちびっこのど自慢」に出場し、初のテレビ出演を果たしました。惜しくもチャンピオンは逃しましたが、25点満点中の24点は、いい線いってたと思います。山田太郎さんの「明日を信じよう」という曲を、目いっぱいオシャレして、半ズボンに白いカーディガンを着て、歌いました。(笑)

クラリネットとの出会い

中学校では、ブラスバンド部に入部しました。あの日のことは、今でも忘れられないのですが、中3の先輩から「おまえは、この楽器をやれ」と渡された楽器が、クラリネットでした。偶然の出会いだったのですが、その後の人生を方向付けるほど、クラリネットが大好きになり、音楽漬けの毎日。毎朝7時半に登校し、自主練習をしていました。ものすごい練習量だったので、かなりの腕前になりましたよ。

進路を決める

中学3年の時に、音大へ進もうと決意しました。音大を受験するにはピアノが弾けなければ・・・と、ピアノを習い始めたのですが、発表会は、初心者から弾いていくので、プログラムの順番が前の方で。それが恥ずかしくて、仕方なかったです。

楽しみといえば、クラリネットの楽譜を探しに、輸入楽譜を扱っている大阪のササヤ書店へ出てくること。出身校には、その頃の楽譜がたくさん残っているんじゃないかな。

大阪の厚生年金会館まで、憧れのクラリネット奏者・ジャック・ランスロ氏のコンサートに行ったのですが、アンコールまで聴いていたら最終電車に間に合わなくなるので、途中で帰ったという苦い思い出もあります。片道2時間はかかりましたからね。

同じ部屋で寝ていた兄に「寝言でクラリネット吹いてたぞ」と言われるほど、寝ても覚めても「クラ、クラ、クラ」でした。

次回に続く