人、街、酒

第4回


辰馬本家酒造株式会社の第15代当主・辰馬章夫さん。慶応義塾大学卒業後、社会人として一歩を踏み出します。


他人の釜の飯


親元を離れて、慶応義塾大学で過ごした辰馬さんは、1963(昭和38)年に卒業すると、アサヒビールに就職しました。まず「他人の釜の飯を食う」ことで、未来の当主としての素養を身に着けるためです。

当時、北浜にあった大阪支店の経理課に配属され金銭出納等を担当しました。

「ひたすらソロバンと手回し計算機の毎日でした。大晦日なんか夜の8時・9時に帰社する営業マンが集金した手形を銀行に届け、本社送金の手続きを済ませ、除夜の鐘を聞きながら帰宅したものです。しんどい、でも有難い体験です。大阪支店で経理課と業務課を経験した後、西宮工場勤務となり、勤労課で労務管理と福利厚生を担当しました。当時は労働組合活動が活発で、しょっちゅう労働争議が起きていましたから、対応に神経を使う毎日でした。

アサヒビールでの5年半は、家業に入ってからも職場の人間関係や現場の人たちの立場や苦労を理解する、とても良い経験になりました。のんきなぼんぼんを厳しく鍛えてくださったアサヒビールさんに心から感謝しています」


アサヒビールについて


アサヒビールの前身は、大日本麦酒株式会社で、この中心人物が、山本為三郎氏で、辰馬さんの母方の親類にあたります。大阪の「山為ガラス」を、三ツ矢サイダーの製造元である帝国鉱泉と合同し、製壜業から飲料製造業へと発展させたのも為三郎氏です。

1949(昭和24)年、大日本麦酒がサッポロビールとアサヒビールに分割され、東日本をサッポロが、西日本をアサヒが商圏とし、為三郎氏がアサヒビールの社長に就任しました。

アサヒビール西宮工場は、本年8月22日をもって85年にわたる製造を終了し、関西圏での製造を吹田工場に集約させました。

かつて通勤した工場が操業を止めたことを、辰馬さんはOBとして「寂しいですね」と、しみじみと懐かしみます。西宮商工会議所会頭としての立場からは、「跡地利用はまだ決定していない状況です。商業施設や病院建設案もありますが、どのような形であれ、一般市民の方に広く利用していただけ、人間関係を広げられるコミュニティーゾーンになってほしいです」と語ります。


辰馬本家酒造に入社


アサヒビールでの5年半の修業後、1968(昭和43)年、27歳で辰馬本家酒造に入社しました。時代は、高度成長期の真っ只中。いよいよ当主への道を踏み出した辰馬さんと「白鹿」との歩みを、次回からお届けします。


つづく



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