山田耕筰の教え子として、その心を伝え続けている愛子さんは御年102歳。ハリのある声、ピンと伸ばした背筋。百歳を過ぎた人には見えません。 楽しく懐かしい話題を、大阪市阿倍野区のご自宅でお聞きしました。

言い出したらきかない

 愛子さんは、官吏の家に生まれた三人姉妹の末っ子。子どものころから、学芸会などで得意になって歌っていたそうですが、ピアノを始めたのは、親和高等女学校に入ってから。先生の影響を受けて、音楽の道に進むことを決意し、東京音楽学校(現・東京芸術大学)に入りました。
 「父は役人でしたから、音楽学校なんてとんでもないと猛反対。『それじゃあ死にます』と言うと、『受けるだけなら』と受験させてくれたの。合格するとは思っていなかったんでしょうね。許したのは受験だけと言い張る父にまた、『入学させてくれなかったら死にます』(笑)」
 晴れて上京し、高木東六さんや四家文子さんとも同級生となりました。
 「一学年23人、寮費月8円、お小遣い40円、一回の帰省に5円の時代でした」と昨日のことのように振り返る愛子さん。 
 山田耕筰との出会い
 「現代の歌曲はイタリア語で学びますが、当時は、ドイツ語でした。山田先生に弟子入りしたのは、昭和3年に音楽学校を卒業してからです。昔から歌い伝えられている日本の歌曲を勉強したいと思ったの。先生は、大阪で音楽文化の振興を図ろうとされたので、私も関西に戻りました。先生が三木楽器のホールで講座を開くと、すぐに60人集まりました。私は、上本町にあった大阪BK(NHK)で、先生の指揮でよく歌いましたよ。ガスビルから中継したこともあったわ」
 戦後、山田氏は脳溢血により体が不自由になったため、「私は、先生が両手で演奏して教えてくださった最後の弟子ということになります」
 音楽との別れ・再会
 山田氏の紹介で、愛子さんは、御影の酒造家「菊正宗」の四男・嘉納鉄夫氏と結婚しました。鉄夫氏は、関西学院で山田氏の後輩であり、支援者でもあった仲。
 「嘉納家では、暮らしの中の西洋音楽は認められなかったの。ピアノを弾くことも許されず、音楽とは縁が切れてしまいました」 夫妻で大阪市内に転居をした後、相愛大学から声楽の講師要請があり、以来、相愛大学、大阪芸術大学、樟蔭女子大学などを歴任、78歳まで教壇に立ちました。
 「からたちの花」
 「百歳バンザイ!」(NHK)の放映で、すっかり有名になりましたが、愛子さんは、退官後も自宅で山田耕筰の歌を指導し続けています。
 「なかでも、『からたちの花』は、とても難しい曲なんです。先生は、この曲が最も日本語を美しく表現している曲だと仰っていました。旋律だけでなく、情景や葉っぱの動きなどを伝えられるように歌うことを指導しています。後世に残したいですね」
 三時間を越す取材の間、歌ったり、ピアノを奏でたりと、片時もじっとしていることのない愛子さん、ますますお元気でお過ごしください。